2018年4月20日 (金)

気まぐれアトリエ日記(916)・・・サファリパーク

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教室展は連日生徒達とその知人との会話で賑わっている。その来場者からよく訊かれる質問がある。「これだけ多様な作品をひとりで指導するのは、さぞ大変でしょうね」

私は「絵は教えるというより自ら気づくものですから、ただ背中を押してやるだけですよ。放し飼いの放牧場みたいな教室です」「牛とか羊が群れている牧場と違い、いろんな動物がいるからここはさしずめサファリパークといったところですかね」なるほどアトリエ・サファリか。

展覧会というものは大きな作品に目がいきがちだが、絵画教室の指導者や画家、美術教師などはむしろさりげない水彩小品を見逃さない。

女性生徒Tさんの作品の前で元美術教師のIさんはこう云った。「この絵は語り口がいいですねー。寡黙だけど、描かないところが色々呟いてますよ」こういった作品に共感するのは作者の心の底辺に響く音色、深くもの思ったことが、口数少ない表現の裏に隠されているからだと思う。

私は「具象、抽象、油彩、水彩、大作、小品などは表現形態が違うだけで、もの思うことをどんなふうに表現しようかというスタイルの差なんだと思いますね。この作品なんか淡い水彩風景だけど、小径の先にしみじみとした感慨が滲んでいるように思えます」と男性生徒Tさんの作品を指差しながら云った。

Iさんは「さっきからこの絵をずっと見ていたんですけど、作者と語り合うことが出来る絵ですね」絵は視覚を通して、目には見えない、作者すら自覚しない心を垣間見ることが出来る。

お互い言葉化出来ない視覚によるニュアンスを共有するのが絵画のよさ、本質であろう。会場にいると色々な話が出てくる。毎日大勢の人達との絵画談義。明日はどんな出会いが待っているだろうか。

2018年4月18日 (水)

気まぐれアトリエ日記(915)・・・厚化粧

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4月22日まで開催中の教室展に一風かわった作品がある。92才井上さんの動く人形だ。操り人形のようにパネルの横から針金を動かすと、腰をくねくねさせながら踊る。

昭和の匂いがする観光地の場末ナントカミュージックで、厚化粧して踊っているお姐さんがふたり。顔は緑のアイシャドウに頬紅、真っ赤な口紅つけていて、けばい。決して美しいとはいえないヌードに赤いハイヒールだけがやけに目立つ。「ご自由に針金を上下左右に動かしてみてください」のコメント。井上さん独特の女性讃歌だ。彼女らに向けた眼差しはあたたかい。

受付をしていた女性生徒から「先生、教室展の品格が落ちませんか」ときた。私は「井上さんは92才だよ。お色気があるのは元気な証拠じゃないか、人生を楽しみながらも懐かしんでるんだよ。君等は美の守備範囲が狭いねー」と応じた。

寸座でギャラリーをしているMさんは「それなら来年は段ボールで見世物小屋を作って、その中で出し物をしてもらったらどうですか?」「なるほど、面白そうだねー!」それを井上さんに話したら悪戯っ子のような顔をした。

アートは上品だけの専売特許じゃない。可笑しみ、毒気、哀しみ、驚きなど心の動きはすべてアートだ。もっと人間くさく、裸の自分を曝してもいいんじゃないのかなー。

絵はこう描けばいいという描写力で最初から勝算があったらスリリングじゃないよ。違和感や問題意識で、こういうもんだという既成概念に収まった美術の空気をかき混ぜたいねー。

初心者のうちは上手く描きたくて描写力に意識が集中する。描写力に人心地ついたら、美の多様性を求めて遊んでみようよ。人の目なんか気にせず自分の遊び心と向き合おう。表現は、好きという人と嫌いという人がいてこそ豊かで幅ひろいものになるんだよ。

4月20日に再度、井上弁士による彼女たちのパフォーマンスがある。

2018年4月17日 (火)

気まぐれアトリエ日記(914)・・・ロクシンガン

4月16日朝9時から教室展Img_1404_2準備作業、午後開場予定。展示作業には生徒55名が参加。作品配置図のように並べたあと、全体の流れを考慮し入れ替えを繰り返す。12時前には展示終了、みんなで仕出し弁当を食べ解散した。

92才Iさんは動く人体でパフォーマンスをするとのことで広いスペースを用意した。お色気のある女性が腰を揺すって踊る仕掛け。顔など、ただきれいじゃないところが可愛い。観光地の場末にあるナントカミュージックで年増女性が踊る退廃的で懐かしい昭和レトロな雰囲気だ。「都はるみを流すと感じ出ますから明日テープ持ってきます」とIさんは云った。

希望者は午後1時からの山本晶司先生ギャラリートークを待つ。中日新聞、静岡新聞の取材を受けているうち先生のトークが始まり100名ほどが集まってくれた。軽妙なジョーク、簡潔な指摘に、時折ハッとさせられる内容であった。忘れないうちにその一部を記してみる。

〈Yさんのアクリル抽象〉 大胆でビビットな色面が素晴らしい。たらしこみ、曲線、直線などを混ぜ過ぎずシンプルにズバッといきたいなー。描いてから消す、崩す、減らすを考えたい。

〈Hさんの水彩〉 近景に田んぼの刈りあとを大きく、遠くに霞んだ家並みの画面構成に感動のありどころが見える。このように感動は画面に一点だけ残すといい。

〈Tさんの油彩〉 コラージュは効果的だが、コラージュしたら必ずその上に色を乗せ、幾分隠すと画面が一体化する。

〈Kさんの水彩画〉 湿った水彩が美しい。しかし乾いた筆捌きも入れ直線も歪めたりすると表現に幅が出る。

〈Nさんの油彩〉 抽象の中に具体的な手などを入れると、現実に引き戻されてしまう。タッチ、配色などで純粋に自分を表現したい。

最後に総括トークを。絵は可愛がりすぎると痩せる。描きすぎると大事なものが枯れる。浮世絵の写楽は短期間のうちにデフォルメして世から消えた。写すことを楽しんだ人だ。楽しみを画面に込めないとつまらない絵になる。

老眼になると視力は落ちるがそうなったら心の目で見ればいい。体には心で見るところが6つある。これをロクシンガンという。(※ケーシー高峰なみのオヤジギャグ)

先生ご夫妻を浜松駅まで送り、多忙な一日は終わった。

2018年4月14日 (土)

気まぐれアトリエ日記(913)・・・藤棚

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今朝、教室展の作品を半田教室から画材店の車に積み込んだ。天気予報では雨マークが出ていたので心配していたのだが降らずに助かった。庭の藤もたわわに咲いている。ただ問題は大部分藤棚の上で咲いているのだ。

作品の積み込みに来てくれたTさんは盆栽の先生をしている。「花が終わってから藤棚の上を剪定してあげれば2~3年で垂れ下がるようになりますよ」何の手入れもしていないので垂れ下がらなかったのだ。

チューリップも咲いて春真っ盛り。先日、庭の様子を写真に撮りFBにアップしたら日本画のNさんからコメントがあった。「先生が描いた花の絵を見たいです。藤の花を描かれませんか?」 私「描いてみます。咲いているうちに」

翌日10分ほどでスケッチしてアップ。「花はあまり描かないので戸惑いました。リクエストに応えて」 Nさん「早速描いてくださりありがとうございます。とても瑞々しいです。このまま日本画にして制作しちゃいたいです」 私「参考になるのならNさんの画風で制作して見せてください」

Kさん「これ先生の絵なんですか!未知の世界を見つけた気分です」 Mクン「水墨画に色置いたように見えただん先生の絵だにー」 Kさん「私も同じこと感じた。余白に余韻があってすごくいい」  Kクン「そおだらー!余白が藤の花の美しさに味をつけてるだで」

Kさん「隙間恐怖症の先生の絵には思えないよね。よく見ると葉っぱなんか先生のタッチなんだけど」 私「Kさんが生徒だった頃より隙間恐怖症治ってきてるよ。平気でガラガラ空けてる。空間も絵のうちだって意識になったら、いい加減でも許せるんだよ」

Mクン「すんげえけっこい子見つけたような感じで描いたかも知れんだで。女神降臨しただかいやー」 私「もともと乙女チックなところはあるけど、見せないように突っ張ってるだけだよ」

私「鉛筆の下描きなし、筆でデッサンと彩色を同時にしてみた。筆は「塗る」から「描く」にシフトすれば「タッチ」になるから「描く息遣い」が残るってわけだよ」

2018年4月10日 (火)

気まぐれアトリエ日記(912)・・・美意識

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天下国家のことは横に置いて、
自分の身の丈にあったことを書いてきた。絵を描いて浮世離れした日々を送っているが、依って立つところは己の美意識にあると思ってものを書いてきた。

最近、政治の話がいやでも耳に入ってくる。国会中継で権力の番犬と化したN議員が理財局長に向かって「バカか!」と怒鳴っていたが、すべて役人のせいにして責任の所在を誤魔化し、安倍総理におべっかを使う茶番を繰り返しているようにみえる。

隠蔽させた者がいるから隠蔽したのだ。国民にはそれが透けて見えている。理財局が自ら隠したってなんのメリットもない。

森友公文書改ざんが一番の問題ではない。改ざんさせた体質こそが問題なのだ。安倍総理の関与があったから特別な計らいが起きたのだ。安倍総理に首根っこ抑えられている佐川氏を証人喚問したって真相など明らかになるわけがない。

改ざんが何故行われたのか。こたえは安倍総理の国会答弁にある。「私や妻が関与したということになれば首相も議員も辞めますよ」この一言で政権に金縛りの理財局は慌てて改ざんしてしまった。

安倍総理は「襟を正して膿を出し切る」と見当はずれな答弁を繰り返す。逃げまくって何の責任もないとする美意識が欠如した安倍総理に、もうこの国をまかせてはおけない。この場合の美意識とは、他人は誤魔化せても自分は誤魔化せない矜持のことだ。

政治はきれいごとでは出来ないことを承知のうえで云うのだが、安倍総理の美意識の欠如と一強独裁体制の驕りが政治をだらしないものにしてしまった。国民の大多数は野党が頼りないという消去法的理由で現内閣を支持してきたと思うのだが、どの政党の理念などという以前にまず人物が尊敬されなければ国民はついていかない。少なくとも国民に敬愛される政治家に日本のかじ取りをしてもらうべきだ。

私利私欲を捨て、ことにあたるような政治家。庶民の声に耳を傾ける政治家。目の前の現実や力関係ばかりに流されず、理想を熱く語って人を惹きつける政治家に国を引っ張っていってもらいたい。姑息で軽蔑されるような政治家はもういらない。

芸術とは直接役に立たないものだが、人間が生きていくために必要な、感じる心を育てる。政治に対しても、ひとりひとりの美意識でしっかりウォッチする必要がある。

2018年4月 8日 (日)

気まぐれアトリエ日記(911)・・・刺激的な水彩

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4月8日、山本昌司先生個展の最終日。教室展直前、小豆島スケッチ旅行のあとで参加者は7名だった。電車で行くつもりだったが予定を変更、私の車で出かけることにした。

藤枝アートカゲヤマギャラリーには11時に到着。先生と奥様が出迎えてくれ、みんなに小さな色紙をプレゼントしてくれた。会場には深くシックな色調の作品が並んでいる。自然から受けたイメージを心象化したという水彩画だ。

奥に並んだ10枚ほどの連作は冬の田や地面がモチーフだという。「寒さをじっと耐え、春を待つ。ここから芽を吹くんだ。目には見えないものを描きたかったんだよ」と先生は話した。ジェッソを塗ったり、ベビーパウダーで擦ったり、サンドペーパーで下地を出したりと、自由で強いマチエールである。

「この絵はねえ、使い古したゴムホースを切ったものに絵具をつけて、紙にバンバン叩きつけたものだよ。それを立てかけておいたら、朝には絵具が垂れ絵が出来上がっていた」

何層にもコラージュした作品の前では「駅前で拾ったチョコレートの紙なんかを張り付けた。ゴミ拾いと間違えられて、御苦労様ですって声がかかったよ。もう後期高齢者を過ぎて末期高齢者だからねえ、好き勝手やりたい放題で遊んでるんだ」

いやいやー、こんなに自由な表現が出来るのは先生の詩心、文学性に裏打ちされたものに違いないが、表現は冷徹なまでに、その説明を排除した造形のみが残っている。耳を傾けて心で聴かなければ語りかけてはこない。

会場を出ると、こっそり呟いた。「義武さんのエッセイに、コレクションした作家が出ていたが、その中にあった水彩画家Oさんの絵を16日に持っていくからコレクションに入れてやって。Oさんとは懇意なんだ。持って帰るのは大変だから受け取り拒否はなしだよ」先生は温かく思いやりの人だ。

先生の絵はとても新鮮で刺激をいっぱいもらった。いただいた色紙を一階の画材部で額装した生徒もいて、もう立派な作品になっていた。「貰った絵を額装して帰る人はあんまりいないよねー」と私が云ったら先生ご夫妻は面白そうに笑った。私もコンテやスケッチブックを買って「16日の教室展ギャラリートークよろしくお願いします」と云って車から手を振った。

帰り道、蓮華寺池にまわってみた。八重桜は満開だったが藤はまだ咲いていなかった。風が冷たく、池を一回りするのは諦め、畔の店でランチし掛川道の駅で筍などを買って家路を急いだ。

2018年4月 7日 (土)

気まぐれアトリエ日記(910)・・・痕跡

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最近の問題は絵の保管場所がなくなってきていることだ。物置には限りがあり、130号や150号の油絵は収納の危機に直面している。

いずれ処分する運命にはあるのだが、せめて痕跡を残してやろうと、昨年秋画集にしておいた。とはいっても40ページほどの冊子なので今までに描いたもののごく一部にすぎないのだが。

出来上がってしばらくすると、もっとなんとかいう作品が描けなかったものかと不満が湧いてくるのだが、同時に試行錯誤で足掻いた痕跡なのだから仕方ないじゃないかという気持もある。

先日、画集制作を依頼した芸術出版社が経営する銀座のギャラリーから電話があり、画集が売れたので代金を郵送しますとのこと。そのギャラリーにも画集を置いてもらっていたので数日して代金とともに手紙が届いた。

前略 お世話になっております。先日お電話を差し上げましたギャラリー美庵を担当しております内藤早苗と申します。

先週、美庵で3回目の個展をしてくださった山形の菅原温子先生が、小杉先生の作品集を気に入って購入されました。この自由さが自分にはない、勉強になりますと云っていました。

先生は今回初めてコラージュにも挑戦され、試行錯誤されている前向きな作家さんです。画集を通して作家さん同士がつながりあうことは私どもにとって嬉しい限りです。

画廊の方にもどうぞお気軽にお立ち寄りくださいませ。今後ともよろしくお願いいたします。ありがとうございました。

絵を描き終わったあとには、こんなものしか描けなかったのかと物足りない気分がつきまとうものだが、試行錯誤の悪戦苦闘が剥き出しになっている画集に共感してくれる人もいるんだなあと思った。というか足掻いている私が見えたのかも知れない。

未熟な画集だがそう云ってもらえると私の青くささも肯定され、もっと足掻けよと背中を押された気分になる。

2018年4月 4日 (水)

気まぐれアトリエ日記(909)・・・冊子「この指と~まれ」

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手製本の教室をしている折金先生が、教室20周年記念誌を届けてくれた。A5版68ページ、上品な仕上がりの冊子になった。

表紙のタイトルは「この指と~まれ」生徒の羽生さんが書いた素朴でおっとりした文字だ。装丁は私の随筆集「アトリエ指導・ろ・もどろ」と同じ紙を使ってある。

見開きページの目次は、寄稿者の名前とタイトルが。文章はひとり1ページから2ページ、ところどころに井上さんのカットが入っている。

冊子を見ながら折金先生とアトリエでしばし談笑。この本の文字入力をしてくれた羽生さんは折金先生の教室にも通っている。 折金先生「小杉教室にはティータイムの頃に行くんですよって云ってました」私「道具を忘れたから、まあ今日は描かないってことも多いんですよ。おおらかに人生を楽しんでますね」

折金先生「時々、小杉教室で描いたスケッチブックを持ってくるんです。ヒモで縛ってあって絶対見せてくれないんですが、それをよく忘れて帰っていくんです」と笑って云った。

改めて読んでみると、ひとりひとりの気持ちが熱く語られている。絵を始めたきっかけや教室の思い出、出会いなど様々である。

定年後、絵と出会ってから、自分と向き合う時間が出来たこと。水彩で草花のスケッチができたらいいなと入会したが教室の影響で油彩の魅力にはまり、よもや自分が130号を描くようになるとは夢にも思わなかったこと。

怪我での入院生活も、絵があったおかげで前向きになれ随分助けられたこと。夫の赴任先では知る人もなく、そんな時にスケッチする楽しさを見つけ、うれしかったこと。

絵の殻を破りたいと入会したのだが、生徒達の前向きな姿勢や、ハッと驚くような自由な感性に圧倒されたが、今では楽しさに目覚め、闇の向こうに一筋の光を見い出したこと。

教室は一番の生きがい。今日こそはいつもと違った絵を描こうと出掛けること。教室スケッチ旅行で東尋坊を鉛筆で描いていた時、先生が自分のコンテを半分に折って手渡してくれたことが印象に残っている。それからコンテの力強いタッチに魅せられガンガン描けるようになったこと・・・などなど

私は20年にわたり生徒と関わってきたことをブログで綴っているが、この冊子は生徒の側から、絵や教室を覗いたバラエティに富んだ冊子になっている。

2018年3月31日 (土)

気まぐれアトリエ日記(908)・・・春の小豆島スケッチ(4)

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朝9時25分、ホテルの送迎バスで土庄港に向かう。ホテルの入り口まで続く桜並木は昨日までと違って満開のトンネルになった。港で高松行きのチケットを買いフェリーに乗船する。

フェリーからは大小さまざまな島が見える。3日とも快晴、天気に恵まれた旅だった。帰りのフェリーにはカーペットを敷いたラウンジがなかったのでスケッチ鑑賞会は出来なかった。

やがて左手に屋島が現れ、もう高松も近い。港に到着後、連絡通路を渡って高松駅へ。瀬戸大橋を渡るマリンライナーの改札口を確認し、コインロッカーに荷物を預けタクシーに分乗して栗林公園に向かう。

園内は桜の真っ只中、花見客で賑わっていた。茶店でうどんを食べ、みたらし団子を買ってみんなで桜の下で食べた。団子だけのささやかな宴だったが華やいだ気分がした。

茶店のソフトクリームをなめなめ池のまわりを一巡り。松がよく手入れされた立派な公園だが、スケッチしても多分納得しないだろうと思った。立派なものはどうも描きにくい。

帰りもタクシーに分乗し高松駅へ向かう。マリンライナーの待合所にいるとAさんが戻ってきた。高松出身のAさんは朝、フェリーを下りてから実家の墓参りに行っていた。「久しぶりに親孝行ができた」と、うれしそうな顔でスマホで撮った両親のお墓の前の自分の写真を見せた。お墓の上は満開の桜だった。

マリンライナーの車窓から山々の桜が見える。山全体が桜の時には「吉野までいかなくてもいいよねー」と歓声があがった。さあ瀬戸大橋を渡る。光る海に無数の島が浮かび船も浮かんで、春の瀬戸内を満喫。

「楽しかったねー、いい旅だったねー」などの話が聞こえて、まずは無事にこの旅が終わろうとしていることにホッとした。浜松駅で、先生からひとことと云われ「小杉部隊、無事任務を終え帰還いたしました」と小野田少尉のように敬礼した。

気まぐれアトリエ日記(907)・・・春の小豆島スケッチ(3)

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昨日はホテルに戻ってから夕食まで時間がたっぷりあったので、コンテで描いたスケッチに水彩で色をつけてみることにした。それを見ていた同室のAさんOさんも色をつけだした。3人とも無言で描いていたが、しばらくしてOさんが「どうも私が描くと、かたいスケッチになっちゃいます。先生のようには描けないですねえ」と云う。

みると細い筆で細部までしっかり描いている。「もっと太い筆で無造作にたっぷりと彩色したほうがいいですよ」と云いながら少し手を入れてみた。

山の調子が細かいので、その上に薄く色をのせ色面をシンプルにしてみる。そうすると山裾の家並みに目がいく。家並みが帯状になっているので2~3軒のみ白く残して、あとは目立たないように隠してみた。

「隠すことは一番描きたいものに焦点をあてるためなんですよ。そこが写真とは違う絵画的なリアリティです。絵とは心で感じたものを翻訳して再構築する作業です」「いやー全然変わったなー」Oさんは80代で、昨年入会した油彩風景画のベテランだ。描写力があるだけに、どうしてもすべてを描き込み過ぎてしまう。絵を進化させたいと教室に入ってきたのだから、私の思っていることを歯に衣着せず話してみることにする。

「完成にこだわらず、配色などを大きく構えて実験的な試みをしてみることですね。かたいスケッチになるのはOさんがキチンとしている資質とは関係ないんですよ。絵の向き合い方の問題です。

無造作な面白さに気づいたりするためには自分の絵に教わるのが一番いい。無意識に滲み出たものこそ本当の自分です。そのためには沢山描いてみることです。今日ある命は、明日のまだ見ぬ自分と出会うための命なんだから」「目からウロコです」Oさんは深く頷いた。聡明な人だ。

そのあとの食事会でOさんは、私が先程した話をもう一度みんなに熱く話していた。Aさんは「帰りのフェリーでの1時間、スケッチ鑑賞会をしながら部屋でしてくれた話をもう一度みんなにしてやってよ」と云った。

教室と違って時間に制限のないゆとりがさせた話だ。もしこの話がふたりの心を熱くさせたのなら、絵画を学ぶ意義を深く理解してくれたことになるなと思った。

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